2011年12月8日
みなさんどないなもんですか。
今日は、先日からお知らせしている工事現場の模様から、
壊されています。
コンクリートみたいな(気休めの)物体が剥がされて、土が崩れてこないのが不思議なくらいの状態。
右は前回ご紹介したときの様子。
違う角度から見ると、ここにも地層が…
さて、次にご紹介するのは戦争に関してのお話。
本日12月8日は日本が、戦争を(太平洋戦争)はじめた日だそうです。
70年前の今日…です。
日本も勝つために色々としたようですが、その中で『アメリカ本土を空爆』って
何それ?
ってな記事をハケン(全文コピペ)↓
(わたくし、インフォシークさんから行き着きました。)
今日、12月8日は、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開始してから70年目の日である。そして 1942年6月、日本はミッドウェー海戦で敗退。戦局は大きく米国側に傾きつつあった。そこで、起死回生の一撃を見舞うという意図のもとに計画されたのが米本土爆撃計画だった。同年7月、伊号25潜水艦の藤田信雄飛曹長が海軍省に呼ばれ、作戦を指示された。
同年9月9日、米西海岸沖600カイリの地点からパイロットの藤田を乗せた零式小型水偵が、オレゴンに向けて飛び立った。520個の小型焼夷弾が詰められた76キロ爆弾2個を投下、オレゴンの森を火に包んだ。歴史上初めて、米国本土が航空機によって爆撃された瞬間だった。
戦後の1962年5月、藤田の元に招待状が届く。米国はオレゴン州ブルッキングス市からのものだった。「貴方の勇気と愛国心に敬意を表したい」と書かれていた。爆撃したその地の人々から、なぜ招待されるのか。日本で評価されなかった自分が、どうして敵国から敬意を表されるのか。
藤田は“万が一”の時に備え、伝家の日本刀を荷物に忍ばせた。いざとなったらこれで割腹自殺する覚悟だった。
だがそれは杞憂だった。ブルッキングス市民は、「米国本土を爆撃したただひとりのサムライ」と心から称えていたのだ。藤田は感激し、罪滅ぼしとして、持参した日本刀を寄贈した。
それから36年後の1998年10月、藤田の遺族が同市を訪れた。1年前に亡くなった藤田の遺灰を、「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた標識の袂に埋めるためだった。遺族らが歓迎を受けたのは言うまでもない。
※SAPIO2011年12月28日号
そのうち切れるだろうけど、こちらがリンクだったり。
では。